秋支度
前口上
先日ニットを買った。
こんな暑い中わざわざデパートまで繰り出して、試着用のTシャツまで別途持って行って、我ながら実にご苦労なことだ。
それでも購入したニットをクローゼットにかけてみると、それを着て出かけることとかを想像して、なんだか急に秋が楽しみになってきた。
きっと街には枯れ葉と土の匂いが漂って、誰も彼もが暖かい色を身に纏って、つるべ落としの夕暮れだとか霧雨だとかが一日をうんと短くして、行きもしない小旅行の計画を妙に入念に練ったりして。
そんな浮ついた季節を思い描いていたら、急に秋めいた音楽を探しておきたくなった。
友人に言わせると、秋物は遅くとも夏が終わるまでに買っておかなければならないらしいのだけれど、音楽だってきっと一緒だ。
急に朝の空気が冷たくなったって聴けるような頼もしいアルバムが数枚、音楽プレイヤーに入っていると安心できる。
そんな「秋に聴きたい」アルバムをライブラリから探していると二枚ほどヒットしたので、是非ご紹介したい。
The Marías - Superclean Vol. I
LA発のバンドThe Maríasが昨年秋デジタル限定でリリースしたEP、Superclean Vol. I。
EPの冒頭を飾るI don't know youのギターの一音から、すでにもうクラクラしてしまう。
そして追い打ちをかけるように、そっと触れるかのような繊細さで歌いだすMaria Zardoyaのヴォイス。
勿論、この手のベースラインの太い、メロウなサウンドを売りにしたネオソウルバンドに関していえば、Hiatus KaiyoteやMoonchildなど枚挙にいとまがない。
しかしThe Maríasに唯一無二の個性を与えているのはやはり彼女の歌声に違いなく、その歌声ゆえにこのEPが秋にピッタリだとは言えないだろうか。
彼女の歌声は催眠的で愁いを帯びているが、それでいてポップな、抜け目のない明るさを内包している。
明暗のバランスが絶妙だからこそ、雨が降ったり予想外に日暮れが早かったりする秋の、ひっそりとした閉鎖的な愉しみに花を添えてくれる。
これが極端に感傷的だったり、底抜けに明るかったりすれば、きっとマッチはしないだろう。
アンビバレントな色合いを生み出す彼女たちにしかできない、「秋」を限りなくオーディブルにした妙技だと、僕は勝手に思っている。
そんなThe Maríasの真価は、アルバムのロー~ミドルテンポのナンバー、具体的に言えばI like it(6:27)やOnly in My Dreams(9:50)で発揮されている。
サイケな音の中に宿る暖かさが、ちょっと肌寒くなってきた秋口に飛び切り合うのだ。
無論、ボーカルだけが彼女たちの持ち味ではない。
酩酊しそうなギターリフ、冒頭でも触れた骨太のリズム隊、随所に薫るブルージーさ。
どれをとっても非常にクオリティが高く、死角の無い布陣だ。
特にBasta Ya(3:30)に挿入されるブラスは、聴いた時の多幸感がすさまじい。
このバンド隊のサウンドもまたMariaの声と同じくどこか蠱惑的で、秋が恋しくなること請け合いである。
そしてこのEPのトリを飾るDéjate Llevar(15:17)ときたら!
催眠的で甘美なその音色は、このEPの魅力を最後に全て盛り込んだと言わんばかり。
トータルで20分足らずの本EPだが、晴れた日も雨の日も、コンディションを選ばず秋をコーディネートしてくれる名盤なのは間違いない。
まずはこの6曲をプレイヤーに入れて、秋のしっとりとした雰囲気を楽しみたいところだ。
(※以下余談)
このEPを紹介するにあたりちょうど良く本人達が聴きながらワイワイするフル動画があったので使ったが、この映像がまたえも言われず素晴らしい。
アップテンポな曲になるとワイワイ踊り出すのが素敵だし、何より犬がうろうろしているのが良い、とても良い。
全然今回のテーマと関係なくこの動画だけでべらべら喋ってしまいそうだけど、ブログの雰囲気がだいぶ明後日の方向に行ってしまいそうで怖いのでこのあたりで一度筆を置きたい。
何が言いたいかというととにかく犬が良い。とても良い。
Andre Solomko - Le Polaroïd
2枚目は北欧フィンランドのサックス奏者、Andre Solomkoの2ndアルバム、Le Polaroïd。
もはや添付の動画を流していただくだけで言葉など必要ない気がしてくる、それほどの官能的なサウンド。
英詩人、ジョン・キーツはオード、秋に寄す(To Autumn)にて秋の情景を「霧が漂う豊かな実りの季節(Season of mists and mellow fruitfulness)」と表現したが、ソロンコの生み出す音像は、まさにキーツの言わんとする秋そのものではないだろうか。
まず語らずにはいられないのは、その糖度の高い、鼓膜に甘く絡みつくボーカルだろう。
それはまるで熟成の効いたシェリー酒のような、一口含むだけで頭の奥の奥まで溶かされてしまう麻薬的な味わいに近いものがある。
そんな危険なほどに濃縮された歌声を聴くのは、爽やかな春や夏でもなければ、落ち着きすぎた冬でもない。
そう、秋じゃなければならないのだ。
そんなメロメロのボーカルと双璧を為しているのが、彼自身が紡ぎ出すサックスの音色だ。
本アルバムラストを飾るTeasing Youのインストルメンタル版は、ボーカルパートを全てサックスに置き換えたナンバーだが、それがボーカル版に負けず劣らずメロウで、かつ非常にスモーキーな音を鳴らしている。
ボーカルをシェリー酒と喩えたが、言うなればこれはスコッチのそれに近い。
すっと鼻を抜けるピート香のような、余韻を残す演奏。
上記に紹介したタイトル曲Le Polaroïdでも、その味わいは存分に堪能できる。
これもまた、秋の乾いた風と共に楽しみたい由縁の一つと言えよう。
The Marías同様、バンド隊もソロンコ作品を語るうえで不可欠な要素だ。
特にアルバム1曲目Teasing Youはスモーキーに嘶くサックスがボーカルと絡んで抜群のハーモニーを生み出している中に生音のピアノも合わさることによって、ほとんどモダンジャズのような様相を呈している。
3曲目Paraphraserや6曲目Afternoon With Stiinaなどはギターのカッティングも心地よく、濃厚なトラックながら耳当たりは適度に軽い。
これだけ隙の無い完成度、そして往年のAORを換骨奪胎したユニーク性の高いトラックメーキング。
盤石な音の素地が出来上がっているからこそ、あれほどに甘美なボーカルやサックスが乗っても曲が崩れないし薄まらない。
繰り返しとなってしまうが、こっくりとしたカスタードのようなこのアルバム、やはり聴くには秋しかない。
The Maríasと同じくこちらも秋全体を通して聴いていたい一枚だが、自分としてはすっきりと晴れた日に聴くことをオススメしたい。
更にニッチなことを言ってしまうと、秋の京都・鎌倉散策のお供になんかしてみると、万事捗ること間違いなしだと思う。
秋の街並みをひと際鮮やかに彩ってくれる、そんなポテンシャルがこの一枚には宿っている、僕はそう確信している。
(※以下余談)
そんな北欧AORの雄、アンドレ・ソロンコだが、なんとこの夏3rdアルバム、Le Deltaplaneを発表した。
新ボーカルを据えて出された本作は1stからのソロンコの系譜を丹念に踏襲しながら、夏のバカンスにぴったりの爽やかな仕上がり。
まだまだ暑い日の続く今のうちにチェックしておかれたい。
結びに
大変主観の混じったレビューではあるが、これら二枚が入っていれば今年の秋が待ち遠しくなることは間違いない、はず、おそらく。
前回の独り言のような記事から早半年が経過していたことに驚きが隠せないが、そろそろ音楽レビューとしての本ブログを本格始動していきたい。
(というかそろそろ文体を統一したい)
それでは皆様、暑い日が続きますが抜かりの無い秋支度をしていきましょう。
2018/03/01
春の嵐が轟轟と街を抜ける。
二月の冷ややかな情景を雨が拭い、街を陽気が覆う。
そして、うららかな初春の陽ざしと共に僕を見舞ったのは、花粉症と鼻風邪だった。
上司に電話して、有給を取る。
幸いにして今日は職場でこれといった仕事もないし、溜まっている仕事もない。
すっかり利かなくなった鼻に薬を入れて、簡単な朝食を済ませる。
直に昼になって、昼食のことを考える。
近頃めっきり行っていない近所のラーメン屋に行こうと思い立ち、外に足を踏み出す。
平日昼間の町は、なんだかとても不思議だった。
休日や夜には降りている喫茶店や洋品店のシャッターが空いていたり、学校がざわざわしていたり。
よく歩くはずの町なのに情景はまるであべこべで、先日ふと読んだ萩原朔太郎の「猫町」を思い出す。
何の面白みのない町の情景が、地理感覚の消失を経て全て新しく見える感覚。
きっとかくして朔太郎は幻惑にも近い錯覚に陥ったのだろうと膝を打つ。
ラーメン屋で軽く腹を満たして、仄かに気力がわいてきた。
腹ごなしに少しだけ遠回りして帰ろうとしたときに、殆ど使い物にならない鼻が、かすかな甘い匂いを感じた。
思わず足を止める。
午後の陽を遮るマンションを縫って、いなたい住宅街の坂をのぼる。
坂の上の民家の前庭には、やはり思った通り、沈丁花が小さな花をつけている。
幼い頃、この時期に漂う香りが気になって、今は亡き祖母に聞いた時に教えてくれた花。
毎年変わらず庭の片隅から春の訪れを知らせてくれる花。
そういえばすっかり空き家状態になっている母方の祖父母宅には、裏庭に沈丁花があった。
庭いじりの好きだった二人が育てたおかげで、それはそれは大ぶりな花をつけて、今ぐらいの季節にあたり一面を春に塗り替えていた。
あの沈丁花は今年もまた、人知れず故郷に春をもたらしているのだろうか。
ふと気づけば、近所のはずなのに全く見覚えの無いところを歩いている。
いつも平日は仕事、休日は家か中心街の方に出てしまうから、自分の住む町をちっとも知らなかった。
こんなところに立派な神社があるなんて、こんなところに細い細い抜け道があるなんて。
一年近く住んでいたとは思えないほどあたりをきょろきょろと見まわしていたら、雑居ビルの隙間から鮮やかな青空と、それを真ん中から裂くようにそびえたつものがあった。
スカイツリーだ。
画一にできた日本全国の住宅街。
三月の晴れた日、閑古鳥の鳴く雑貨店、猫、満開の白梅。
あまねく日本に点在する町とほとんど区別のつかない僕の住むこの町はしかし、果てしなく高い電波塔を、しれっと背景にあしらっている。
「東京に住む人間の優越感」なんて月並みな言葉で片づけるのが野暮に感じるような不思議な感覚。
これをきちんと言葉にするために、どのくらい時間がかかるのだろう。
帰り際にコンビニで水と暖かい紅茶を買って家のポストを探ると、注文していたCDが届いていた。
Orangeade、北園みなみが参加しているバンドのデビュー作だ。
部屋に戻るなりそそくさと封を切って、CDを聴く。
PCを立ち上げて、紅茶を開封する。
おもむろに、しかし何かにせっつかれるようにキーボードを叩く。
明日は金曜日。
今年リリースの邦楽アルバムベスト5選
気づけば年の瀬。
皆さん無事に仕事は納めてきましたか、ダイエット計画は達成しましたか、貯金の目標額は達成しましたか。
画面越しの皆さんの顔が芳しくないようですのでちゃっちゃと本題入りましょう、そうしましょう。
本記事は2017年にリリースされた邦アーティストのアルバム、およびミニアルバム(言うところのEP)のうち、
「これだけは絶対買うべき!」
という5枚を、私の独断と偏見、歪んだ音楽遍歴から生る性癖を基準に選考したものです。
尚、本来は例年通り10枚選ぼうとしていたのですが、社会人生活が始まって音楽と距離ができてしまったのか、盤を買うという機会がめっきり減ったしまったのか、頑張っても9枚しか思い浮かばなかったので、いっそ5枚に厳選する方向にしてしまえということになりました。
以上、言い訳も終わったところで早速珠玉の5枚、紹介していきましょう。(紹介順は順不同)
いきなりこれかよ!独断も偏見もくそもあるか!
という満場一致感は否めないが、やはり今年を語る上でこれは外せない。
1曲目から耳の中を音の波でたっぷりと浸す「あなたがいるなら」
渋くて重いダブのビートはポストジェイムスブレイクのようなテクスチャを持っている一方で、紡がれる言葉は限りなく甘美。
このコントラストこそまさに"Mellow Waves"だと、思わず膝を叩いてしまう。
そこからギターも軽快な「いつか/どこか」へ。
オルタナティブとエレクトロの旨味のバランスが素晴らしい。
そして5曲目の「夢の中で」が個人的にこのアルバムのハイライト。
ポップス要素を究極まで煮詰めたようなキャッチーサウンドは、キャリアを重ねた今の彼だからこそ組み上げられるものではないだろうか。
その後も小気味良い「Mellow Yellow Feel」、長雨を思わせる「The Rain Song」と続き、ラストに「夢の奥で」を迎えるが、これもまた素晴らしい。
本当に夢の奥底に眠る記憶を掘り出したような、ドリーミーで耽美的なフィナーレ。
円熟した小山田圭吾の真骨頂が発揮されたこの1枚なしに、今年は語れない。
2. Yooks - Newtownage
京都発、ニュータウンポップ。
YogeeやAwesomeなどのシティポップ勢やSuchmosやNulbarichなどのブラックミュージック再解釈勢とは異なる、ニュータウン=郊外(サバービア)に軸足を置いたサウンドは、頭打ち状態だった日本のインディーズ界に新たな方向性を提示しているように思える。
まずは是非リンクにも貼ったリードトラック、「hanashi」を聴いていただきたい。
限りなく地に足がついていて、淡白だからロケーションを選ばない。
とはいえ薄味かといわれると折々リズム隊の骨太さが垣間見えたり、ここ一番のコーラスやファルセットが美しかったりと、実に手が込んでいる。
このガチャガチャと物を詰め込みすぎないサイズ感と、細部まで作り込んだ音像のディテールは、ちっとやそっとの経験、才能ではできない代物だ。
アルバム単位でも、気怠い日曜の空気を繊細な感性で切り取っている「Sunday Tripper」や胸を締め付けるサビが持ち味のサマーアンセム、「Leaving Summer」など、文句のつけようのないクオリティ&センス。
ともすればこういうバンドは曲同士の傾向が似通ってしまうため、「どれを聴いても同じような感じ」という現象に陥りがちだが、その点Yooksはメンバーのバックグラウンドが多様なのか、自分たちの核にあたる部分を基準に、様々なジャンルの美味しいところを盛り込んでいて、それぞれにキャラの立った楽曲に仕上がっている。
シティにやってきた郊外の風の快進撃は、まだまだ続きそうだ。
去年、一昨年とTempalayやNever Young Beachなどの日本のフォーキーな要素や渋みのある声を西海岸的な明るいサウンドに掛け合わせるムーブメントがあったが、彼らはそういった流れに近似性はあるもののまったく異質な方向性を持っている。
はっぴぃえんどのリバイバルと解釈しても、サイケロックバンドと括りを広げても、なおするりと指の隙間から抜け出していくオリジナリティ。
その才能は、冒頭を飾る「台風銀座」からいかんなく発揮されている。
ジャングリーな裏打ちのギター、むき出しのベース、ざらついた独特の声質。
そして何より、その詞のセンス。
逆さの意味の形容詞と名詞を組み合わせるグロテスクさ、気障になりすぎない絶妙な言葉選びは、「唯一無二」と言い表して差し支えないのではないだろうか。
彼らの音や詞はまさしくバンド名や曲、歌詞の中にある「台風」そのもので、夏の湿り気をはらんで轟轟と街を練り歩いている情景をありありと僕らの心に描き出してゆく。
また、台風クラブのもうひとつの持ち味ともいえるのが、荒削りに聞こえる雰囲気とは裏腹な複雑で技巧に富んだコード進行や演奏だ。
3曲目「ずる休み」では始終トリッキーなギターが鳴り、ラスト手前「飛・び・た・い」でもサビで抑え目ながらもドラムの手数はすさまじい…。
このギミックがアルバム全体のスパイスとなって、彼らが醸し出す「カッコよさ」につながっている。
上記以外もスロウな「ダンスフロアのならず者」や「処暑」、軽快な「ついのすみか」「飛・び・た・い」、ラストにふさわしいセンチメンタルなコード進行の「まつりのあと」まで、バランスよく最後まで楽しめる仕上がりだ。
2017年に留まらず、是非来年の夏にも聴きたい1枚。
4. 東郷清丸 - 2兆円
年の瀬も迫る11月下旬、突如現れて(本当はもっと早くから知っていた耳の早いリスナーはいたのだろうが)業界に、というか僕に激震を走らせたSSW、東郷清丸。
まず名前がすさまじい、ソロなの?そういうユニット名なの?
そしてかなり攻めたジャケットのアートワーク。
「何だこれコミックバンド…?」と思いながら聴いた「ロードムービー」は、完全に不意打ちだった。
カクバリズム一派にも通じるサウンドと、甘く優しい声色。
しかしこの1枚をノミネートした理由は、その引き出しの多さとアウトプットの多さ。
なんせこのアルバム、デジタル盤だと全60曲にものぼる。
しかもそれがギターによる弾き語りだったりちょっぴりブラックなやつだったり、ファンクっぽいやつだったりと、あらゆる顔を持っている。
そのうちA面的な最初の10曲に詰め込まれたキャッチーさは、今年リリースの曲の中でも群を抜いて素晴らしい。
特に歌詞に関しては、3曲目「SuperRelax」の以下の引用部分が印象的だ。
良い風が来るよ
肌感覚の解像度上げてく
力まず自然体の声で紡がれる、この情景。
SSWとして、詩にも歌にもセンスが存分に発揮されていることが、この曲を聴くだけでよく分かるのではないだろうか。
60曲もあればどれがオススメとは言い難いが、「サマタイム」や「赤坂プリンスホテル」のようなご機嫌なチューンからはまず聴きたいところ。
暮れのリリースにもかかわらず強烈な印象を残したアルバムだった。
5. けもの - めたもるシティ
お待たせいたしました、お待たせいたしました。
今年たった1枚しかCDが買えないなら、無人島に1枚持っていくなら、絶対に選びたい1枚ことめたもるシティ。
これだけで記事1つ書き上げられるくらいに、今作は素晴らしい出来だった。
それは菊池成孔氏の作り出すポップスとジャズ、打ち込みと生のバランスに起因するところではあるが、歌詞の同時代性、いわゆるシンパシーも重要なエッセンスになっている。
上の「めたもるセブン」を例にとっても、オリンピックに向けて形を変える町並み、自己肯定感の低さを払しょくする瞬間、そういった「2017ness」を非常に巧みに描き出している。
そう、とにかくけものは、歌詞のセンスが規格外なのだ。
「めたもるセブン」というある種アルバムのヤマを越して続く「tO→Kio」なんて、最早言葉に言い表せないほど。
銀座の街に革命が起こったら
どのブランドを着て闘おうかな?
アイという名前の子は
愛について結構普通
ブランドと名前という生後と生前にもたらさられる自分を外から定義するものたち、そのコントラストをたった2文で纏める文才には、思わず舌を巻く。
このともすればやりすぎになってしまうアクの強い言葉たちを、いとも簡単に彼女たちは使いこなしてしまう。
こんなの、卑怯としか言いようがない。
勿論、音楽的なアプローチの素晴らしさも見逃せない。
ジャジーなアレンジやキュートなキーボードの音選び、中性的な男声コーラス。
それらはニューミュージックから渋谷系、ネオ渋谷系、シティポップのモードを踏襲しながらも尚、どこにも属さない現在進行形の新しい音楽を生み出している。
「オレンジのライト、夜のドライブ」のドライブソング感、「C.S.C」の軽やかなブラス、「フィッシュ京子ちゃんのテーマ」のニューウェーブ的アレンジ、その1つ1つがシティポップのその先を、実に明確にとらえているのではないだろうか。
極めつけはアルバムの最期を締める「Someone That Loves You」
ミニマルな構成で表現する、ストレートながら外連味のないこの曲に、アルバムを通して聴くたびにノックアウトされてしまう。
これを聴かずに2017年は終われない、これを聴かずに2018年の音楽ブームは予想できない。
このアルバムを知ることが今後のポップスを定義するうえで欠かせない、いわばマイルストーンのような1枚だ。
メタモルフォーゼ(変態) を遂げる日本のポップスを物語る今作、自信を持ってオススメしたい。
ということで駆け足でではありますが全5枚、僭越ながら紹介いたしました。
可能であれば2017年ベストトラック20のような記事も書こうと思います。
可能であれば
それでは皆様、良いお年を。
【名文を聴く】千年紀末に降る雪は / キリンジ
2017年が始まったぞ~なんて言っている間に桜が咲いて散って、急に外が暑くなってきて寒くなってきて。
今年も残り三か月となってしまい、今年もまたやろうと思ったことを何もできず年の瀬に向かおうとしている今日この頃です。
時にスーパーやコンビニに立ち寄ったりなんかしてみると、今月末に控えたハロウィンに向けて、お菓子売り場を中心として橙やら紫やら黒やらが入り乱れています。
きっとこれでハロウィンが終われば今度はクリスマスに向けて赤と緑が幅を利かせるのかしらん、なんとも世間は気ぜわしい。
さて、そんな世間の気ぜわしさを上回るかのように、今回紹介したいのはキリンジ作のクリスマスソング、「千年紀末に降る雪は」
星野源ANNでも紹介されたそうなので、ご存知の方は意外と多いのかもしれません。
クリスマスを歌うとは到底思えないジャジーでしっとり重いイントロから始まるこの歌の中心にあるのは、「現代社会とサンタクロース」という、何ともポップスらしくないテーマです。
冷凍都市の冷酷さと、善意だけでプレゼントを配る悲しい男、そしてそんなサンタクロースに施しを与える「誰か」
この歌詞を一つ一つをつまびらかにするのも面白そうですが、僕が今回語りたいのは一番最後のフレーズです。
知らない街のホテルで静かに食事
遊ばないかと少女の娼婦が誘う
冷たい枕の裏に愛がある
夜風を遠く聴く 歯を磨く
My Old Friend. 慰みに真っ赤な柊の実をひとつどうぞ
さあ どうぞ
プレゼントを配布途中の街で立ち寄ったホテルで一人黙々と食事を済ませる物悲しい男の背中。
そして、彼の原動力たる子供の無垢さを裏切るように現れる少女の娼婦。
たった2行の詩の中に現れるイノセンスの消失こそ、この歌詞の核と云っても過言ではないはずです。
さて、この情景を見て僕が思い出したのは、J. D サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でした。
今回はこのサンタクロースと「キャッチャー」、二つに描かれる「イノセンスの消失と救済」について、話してみようと思います。
サリンジャーの「キャッチャー」は最近刊行された村上春樹訳のタイトルのため、人によっては野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの方が馴染みがあるかもしれません。
プレップスクールの落ちこぼれ、ホールデンがクリスマスまでの三日間をニューヨークで過ごす、粗筋だけを見れば何が面白いやらという感じの作品ですが、思春期の彼が持つヒリヒリとした感性や価値観は、時代を超え多くの若者が感化されています。
かくいう僕もこの作品で学士の卒論まで書いた人間なので、今更この作品についてあれやこれやと書くのもなんだか気恥ずかしかったりするんですが。
この作品について議論がなされる時、必ずと言っていいほど話題に上がるのは「結局イノセンスは失われたのか」というテーマです。
作品全体を通底している「純粋無垢なる子供たち」と「俗世で汚れていく大人たち」という対立構図の中で、ホールデンは「キャッチャー」として、子供たちを汚い社会から守ることができるのか、という話。
勿論「出来た」派も「出来なかった」派もそれぞれもっともな議論を尽くしているのでこれに絶対的な結論を下すことはできませんが、僕の拙論を以て言わせていただくと、結局ホールデンはイノセンスなるものを守ることはできませんでした。
そのあたりの詳しい話を全部していると今回紹介する曲の話がまるでできなくなるので、気になる方は僕の論文の根幹となるアイデアを与えてくれた竹内康浩先生の名著、『ライ麦畑のミステリー』や『「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』を一読していただければと思います。
『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書
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閑話休題。
とにかくホールデンが守ろうとした自分の弟・妹、力ない者たち、幼き者たちは、何かしらの形でイノセンスを失う、あるいは命を失うという顛末を迎えています。
そしてそれはこの「千年紀末」でも共通しています。
子供たちにプレゼントを渡そうと街へ出れば車に轢かれかけ、汚い大人たちには嘲笑を浴びせかけられ、挙句の果てに純真だと信じていた子供が娼婦になる始末。
歌詞の言葉を使って言うなれば、「永久凍土も溶ける日が来る」ことに、サンタクロースは行き場の無い悲しみを抱えているのではないでしょうか。
では、ホールデンもサンタクロースも、どちらも永遠に救われないのでしょうか。
彼らはイノセンスとスノッブの間の煉獄で、永遠に自らの無力を嘆くのでしょうか。
その答えは、サリンジャー研究を齧った若輩者の僕に言わせれば、"ノー"です。
すなわち、彼らを救う誰かが、どちらにもきちんと存在しているということです。
イノセンスを守れなかったホールデンを救ったのは、これはまた話がややこしくなるのですが、彼が一番守ろうとしている、妹のフィービーだと、僕は考えています。
この辺も詳しいところは断腸の思いで割愛せざるを得ないんですが、とにかく、彼が一度俗世に叩きのめされ、ある種ライ麦畑から落っこちてしまった時、それを「救いあげてくれた」のは、自分が落ちないように落ちないようにと守っていた庇護者たる、自らの妹だったわけです。
妹に渡した赤いハンティングキャップを、今度は自分が被せてもらう、その物理的交換によって生じる主体と客体の反転、この辺りは前述の二冊にたっぷりと記載されているので、繰り返しになりますがこちらも是非ご覧ください。
ということで、ホールデンは煉獄から無事救済をしてもらえた。
では、サンタクロースは…?
それを解くカギが、サビの最後に置いてあります。
My Old Friend. 慰みに真っ赤な柊の実をひとつどうぞ
さあ どうぞ
そう、今まで与える側だった、つまりは主体であったサンタクロースに、何かを渡す、つまり主体と客体の転換を起こしている「誰か」がいるのです。
じゃあそれは誰なのか?
それは他でもないこの歌を歌う者。
サンタクロースをMy Old Friend と呼ぶ者。
そう、かつてサンタクロースにプレゼントをもらった、「かつての」子供たち。
ここではやはり、作者のキリンジ達ということになるでしょうか。
冷え切った現代社会の中で、なおもサンタクロースやクリスマスの美しい思い出を保管し、憐憫を示す優しく美しき心の人々。
彼らは既に大人ですし、サンタを嘲る他の大人たちに交じって生活をしていますが、彼らの中に宿る純真な子供の心こそが、この転換を可能にしているのです。
「君はまだプレゼントを配っているんだね、あの頃と変わらずに」
「あの時君にプレゼントをもらったこと、僕は忘れていないよ」
そんな記憶や思いの堆積が、彼らの差し出す柊の実に詰まっているのではないでしょうか。
庇護者から渡されるものがキャッチャーでも千年紀末でも「赤」であるのは、何か偶然とはいえない気さえしてきます。
かくして救済されたサンタは、次の年にもまた、プレゼントを配りに都市へ降りてくるのでしょう。
自分を待ちわびる子供たちのために、自分を信じ、守ってくれる「かつての」子供たちのために―
今回は最後のサビだけに着目してお話をしましたが、赤い鬼で旧暦の節分をほのめかした後に柊の実をさりげなく出したり、電波塔を化粧瓶に見立てたりするなど、この曲の端々に、堀込高樹の文才が表れています。
その辺も込みでこの曲を聴いてみると、また新たな発見があって面白いと思います。
どうでも良い話ですが僕はこの曲を聴くと大学入学して1年目のクリスマス、部屋でこれを聴きながら独りオニオンスープをグラグラ煮立てていたことを思い出します、辛い。
キャッチャーの分析が随分と投げやりで本当に申し訳ないところですが、今までキャッチャーを読んだことが無かった方はキャッチャーを、千年紀末を聴いたことが無かった方はこの曲を、ないしはキリンジを一「読」していただけますと幸いです。
(どちらも根強いファンがいるのでこんないい加減な分析をして怒られないか心配ですが)
以上、三連休の手持無沙汰に気をやられた人間の戯言でした。
次回もなんか頑張って書こうと思います。
Mic Check
ア、ア、ア、ア、ア、
マイクチェーック
ア、ア、ア、ア、ア、
キコエマスカー
キコエマスカー