【名文を聴く】千年紀末に降る雪は / キリンジ
2017年が始まったぞ~なんて言っている間に桜が咲いて散って、急に外が暑くなってきて寒くなってきて。
今年も残り三か月となってしまい、今年もまたやろうと思ったことを何もできず年の瀬に向かおうとしている今日この頃です。
時にスーパーやコンビニに立ち寄ったりなんかしてみると、今月末に控えたハロウィンに向けて、お菓子売り場を中心として橙やら紫やら黒やらが入り乱れています。
きっとこれでハロウィンが終われば今度はクリスマスに向けて赤と緑が幅を利かせるのかしらん、なんとも世間は気ぜわしい。
さて、そんな世間の気ぜわしさを上回るかのように、今回紹介したいのはキリンジ作のクリスマスソング、「千年紀末に降る雪は」
星野源ANNでも紹介されたそうなので、ご存知の方は意外と多いのかもしれません。
クリスマスを歌うとは到底思えないジャジーでしっとり重いイントロから始まるこの歌の中心にあるのは、「現代社会とサンタクロース」という、何ともポップスらしくないテーマです。
冷凍都市の冷酷さと、善意だけでプレゼントを配る悲しい男、そしてそんなサンタクロースに施しを与える「誰か」
この歌詞を一つ一つをつまびらかにするのも面白そうですが、僕が今回語りたいのは一番最後のフレーズです。
知らない街のホテルで静かに食事
遊ばないかと少女の娼婦が誘う
冷たい枕の裏に愛がある
夜風を遠く聴く 歯を磨く
My Old Friend. 慰みに真っ赤な柊の実をひとつどうぞ
さあ どうぞ
プレゼントを配布途中の街で立ち寄ったホテルで一人黙々と食事を済ませる物悲しい男の背中。
そして、彼の原動力たる子供の無垢さを裏切るように現れる少女の娼婦。
たった2行の詩の中に現れるイノセンスの消失こそ、この歌詞の核と云っても過言ではないはずです。
さて、この情景を見て僕が思い出したのは、J. D サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」でした。
今回はこのサンタクロースと「キャッチャー」、二つに描かれる「イノセンスの消失と救済」について、話してみようと思います。
サリンジャーの「キャッチャー」は最近刊行された村上春樹訳のタイトルのため、人によっては野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルの方が馴染みがあるかもしれません。
プレップスクールの落ちこぼれ、ホールデンがクリスマスまでの三日間をニューヨークで過ごす、粗筋だけを見れば何が面白いやらという感じの作品ですが、思春期の彼が持つヒリヒリとした感性や価値観は、時代を超え多くの若者が感化されています。
かくいう僕もこの作品で学士の卒論まで書いた人間なので、今更この作品についてあれやこれやと書くのもなんだか気恥ずかしかったりするんですが。
この作品について議論がなされる時、必ずと言っていいほど話題に上がるのは「結局イノセンスは失われたのか」というテーマです。
作品全体を通底している「純粋無垢なる子供たち」と「俗世で汚れていく大人たち」という対立構図の中で、ホールデンは「キャッチャー」として、子供たちを汚い社会から守ることができるのか、という話。
勿論「出来た」派も「出来なかった」派もそれぞれもっともな議論を尽くしているのでこれに絶対的な結論を下すことはできませんが、僕の拙論を以て言わせていただくと、結局ホールデンはイノセンスなるものを守ることはできませんでした。
そのあたりの詳しい話を全部していると今回紹介する曲の話がまるでできなくなるので、気になる方は僕の論文の根幹となるアイデアを与えてくれた竹内康浩先生の名著、『ライ麦畑のミステリー』や『「ライ麦畑でつかまえて」についてもう何も言いたくない』を一読していただければと思います。
『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書
- 作者: 竹内康浩
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閑話休題。
とにかくホールデンが守ろうとした自分の弟・妹、力ない者たち、幼き者たちは、何かしらの形でイノセンスを失う、あるいは命を失うという顛末を迎えています。
そしてそれはこの「千年紀末」でも共通しています。
子供たちにプレゼントを渡そうと街へ出れば車に轢かれかけ、汚い大人たちには嘲笑を浴びせかけられ、挙句の果てに純真だと信じていた子供が娼婦になる始末。
歌詞の言葉を使って言うなれば、「永久凍土も溶ける日が来る」ことに、サンタクロースは行き場の無い悲しみを抱えているのではないでしょうか。
では、ホールデンもサンタクロースも、どちらも永遠に救われないのでしょうか。
彼らはイノセンスとスノッブの間の煉獄で、永遠に自らの無力を嘆くのでしょうか。
その答えは、サリンジャー研究を齧った若輩者の僕に言わせれば、"ノー"です。
すなわち、彼らを救う誰かが、どちらにもきちんと存在しているということです。
イノセンスを守れなかったホールデンを救ったのは、これはまた話がややこしくなるのですが、彼が一番守ろうとしている、妹のフィービーだと、僕は考えています。
この辺も詳しいところは断腸の思いで割愛せざるを得ないんですが、とにかく、彼が一度俗世に叩きのめされ、ある種ライ麦畑から落っこちてしまった時、それを「救いあげてくれた」のは、自分が落ちないように落ちないようにと守っていた庇護者たる、自らの妹だったわけです。
妹に渡した赤いハンティングキャップを、今度は自分が被せてもらう、その物理的交換によって生じる主体と客体の反転、この辺りは前述の二冊にたっぷりと記載されているので、繰り返しになりますがこちらも是非ご覧ください。
ということで、ホールデンは煉獄から無事救済をしてもらえた。
では、サンタクロースは…?
それを解くカギが、サビの最後に置いてあります。
My Old Friend. 慰みに真っ赤な柊の実をひとつどうぞ
さあ どうぞ
そう、今まで与える側だった、つまりは主体であったサンタクロースに、何かを渡す、つまり主体と客体の転換を起こしている「誰か」がいるのです。
じゃあそれは誰なのか?
それは他でもないこの歌を歌う者。
サンタクロースをMy Old Friend と呼ぶ者。
そう、かつてサンタクロースにプレゼントをもらった、「かつての」子供たち。
ここではやはり、作者のキリンジ達ということになるでしょうか。
冷え切った現代社会の中で、なおもサンタクロースやクリスマスの美しい思い出を保管し、憐憫を示す優しく美しき心の人々。
彼らは既に大人ですし、サンタを嘲る他の大人たちに交じって生活をしていますが、彼らの中に宿る純真な子供の心こそが、この転換を可能にしているのです。
「君はまだプレゼントを配っているんだね、あの頃と変わらずに」
「あの時君にプレゼントをもらったこと、僕は忘れていないよ」
そんな記憶や思いの堆積が、彼らの差し出す柊の実に詰まっているのではないでしょうか。
庇護者から渡されるものがキャッチャーでも千年紀末でも「赤」であるのは、何か偶然とはいえない気さえしてきます。
かくして救済されたサンタは、次の年にもまた、プレゼントを配りに都市へ降りてくるのでしょう。
自分を待ちわびる子供たちのために、自分を信じ、守ってくれる「かつての」子供たちのために―
今回は最後のサビだけに着目してお話をしましたが、赤い鬼で旧暦の節分をほのめかした後に柊の実をさりげなく出したり、電波塔を化粧瓶に見立てたりするなど、この曲の端々に、堀込高樹の文才が表れています。
その辺も込みでこの曲を聴いてみると、また新たな発見があって面白いと思います。
どうでも良い話ですが僕はこの曲を聴くと大学入学して1年目のクリスマス、部屋でこれを聴きながら独りオニオンスープをグラグラ煮立てていたことを思い出します、辛い。
キャッチャーの分析が随分と投げやりで本当に申し訳ないところですが、今までキャッチャーを読んだことが無かった方はキャッチャーを、千年紀末を聴いたことが無かった方はこの曲を、ないしはキリンジを一「読」していただけますと幸いです。
(どちらも根強いファンがいるのでこんないい加減な分析をして怒られないか心配ですが)
以上、三連休の手持無沙汰に気をやられた人間の戯言でした。
次回もなんか頑張って書こうと思います。